苹果。ラストシーン。
「ただいま……」
返事などあるはずもないのに口にしてしまった。母親と暮らしていたときの名残というより、一人暮らしになって独り言が多くなったというほうが正しい。
カバンを放り投げながら「ああ、疲れた」とまた言ってしまう。
ついつい言葉が口をついてしまうのだが、言ったあとに部屋に反響する自分の声を聴くと気分が滅入った。ひとりぼっちであると再確認させられる気になるのだ。
絨毯の上に座り、ストッキングに包まれたぱんぱんにはったふくらはぎを投げ出す。
傍らのベッドによしかかり、頭を布団に乗せる。
今度はため息が出る。
荻野目さん。ため息をついたら、幸せが逃げますよ。
今日、会社の後輩に言われた言葉だ。そのときはそうね、と言って微笑み返したが、ちくりと胸にとげが刺さった。
幸せって、いったいなんなのだろう。
会社の同性の女子は幸せになりたい、とよく言う。女子の場合、それは恋愛や結婚と結びついている。
異性の場合は出世や仕事の成功にあるようだ。家族がいる者はその誕生や成長を幸せとよく口にする。
苹果にはよくわからなかった。
恋人がいたことも、仕事がうまくいったこともある。それらを、嬉しいとは思う。
だが、それらが幸せというものなのかよくわからないのだ。
もう一度ため息が出た。
スーツを着替えるのも億劫だった。だが、妙に目が冴えていて眠いというわけでもない。
疲れているなと思う。
いつもはこんなことは考えない。仕事は順調で、お給料も貯金に回せるほどもらっているし、友人も多くいる。今は恋人はいないが、気にしているほどでもない。
だが、たまに思考がくだらない方向にばかり行ってしまう。
苹果は投げ出したカバンから携帯を取り出すと、電話帳を呼び出した。画面に映るのは陽毬、という名前の特別な友人だ。
まだ学生の頃、不思議な体験をして知り合った彼女にであれば、出口の見えない気持ちを話しても笑われないで受け止めてもらえるだろう。
だが画面の上部に浮かぶ時間に目が入り、思いとどまった。いくら親しいといっても、もう非常識な時間だ。
携帯を投げ出すと、傍らにあったリモコンを手に取る。気を紛らわそうとテレビの電源を点けた。
映し出されたのは、闇の中にぽつんとある箱だった。
私みたい、などと考えながらぼんやりと画面を見つめた。
箱の中には柔らかい質の青い髪を持った少年が力なく寝転がっている。
闇にもうひとつ箱が浮かんだ。そちらには釣り目がちの赤い髪の少年が同じく気だるそうな様子で座っていた。
飢餓感を持った二人の少年は言葉を交わし、励まし合う。
映画だろうか、と苹果は首を傾げた。
子どもが箱に閉じ込められている状況がどういったものなのかわからない。何かの暗喩だろうか。表現が難解で、どういうストーリーなのか読めない。
普段、苹果が好んで見る映画は恋愛ものか話題作くらいで筋立てがしっかりしている。面白いのだろうか、まあたまにはいいだろうか、と腰を据えて見ることにする。
青い髪の少年は、冷たい印象を受ける建物の中で幼い少女と出会い、父の友人が亡くなった葬式では赤い髪の少年と再会する。
いつのまにか三人は血がつながっていないはずなのに、すっかりとそのことを忘れて家族となる。
ストーリーといったストーリーはないものの、時系列順に進んでいくようだ。青い髪の少年がだんだんと成長していく中で仲睦まじく三人が過ごす断片的なシーンが続いていく。
だが、両親が返ってこない夜からがらりと雰囲気が変わった。
両親は大勢が亡くなった事件に関わっていた犯罪者だとわかり、妹はその代償のように病気になる。
どんどんと暗くなっていく内容に苹果は見るのをやめようかと思う。運命を憎む青い髪の少年の表情を見ていられなかった。
するとまた場面が変わった。新たに現れた登場人物は、破天荒な女子高生だった。
突拍子もない行動ばかりとる少女は少年を振り回す。少年は文句を言いながらも、画面は打って変わって色鮮やかな印象を受けるものになった。
二人はぶつかり合いながらも心を通わせていく。
彼女が少年の両親が犯した犯罪の被害者家族だったこと、妹の病気が悪化していくこと、赤い髪の少年がそのために犯罪に手を染めていくこと、次々と少年は運命に翻弄される。
けれども、少女のいるところでは画面は色づいている。
いつの間にか、苹果は食い入るように画面を見つめていた。
「一番大切な言葉ならわかる!」
少女の声が響く。少年が止めるのも聞かず、少女は呪文を口にする。苹果は、なぜかその言葉をわかっていた。画面の中の少女と一緒に、唇を動かす。
次の瞬間、目の前が真っ赤に染まった。びくりとしたが、それは画面の中が炎に包まれただけだった。少年の少女を呼ぶ声がひときわ大きく聞こえた。
自分が代償を受けようとする少女を、少年がかき抱く。そして慈愛に満ちた瞳で少女を見つめた。
「これは、僕たちの罰だから」
耳元で言われたような気がした。ごうごうと炎の音が渦巻く中、だが、少年の言葉は浮かび上がるようにはっきり聞こえた。
「ありがとう、愛してる」
そして、電源が切れるように唐突に画面が暗転した。
静寂が部屋を支配する。
苹果は画面に浮かび上がった自分の顔にぽかんとした。瞳からは、涙が伝っていた。
「え……え、なに?」
混乱して思わずよくわからない言葉が口をついた。すると、また突然耳障りな音がして画面が砂嵐になった。何かの拍子にチャンネルを変えてしまったのかと、慌ててリモコンを取って次々と番組を変える。
だが、真の抜けた通販番組か、文字だけで淡々とニュースが流れている画面か、放送休止を告げる画面しか出てこない。先ほどまでの映画は、いったい何チャンネルだったのだろうか。思い出そうとしても、電源を点けたらやっていたのでどうしようもない。
「なんで……え、なんで?」
転ぶように急いで立ち上がると、ベッドの隅に置いてあったテレビ情報誌を掴む。今日の日付のページを開き、先ほど携帯で見た時間のところを見る。
そこには、どの欄にも「放送休止」の文字と、通販番組の名前があるだけだった。
それでも信じられず、もう朝日も昇ろうとしている時間だというのに母親に電話をする。母の文句を封じ込める必死な声で、新聞を見てほしいと言う。
「あんたの持ってるテレビ情報誌と同じ。放送休止と通販番組しか書いてないわよ。夢でも見たんじゃないの?」
母はあくびをかみ殺すような声でそう告げると、さっさと通話を切ってしまった。
「夢……?」
苹果は未だあたたかい涙の跡に指で触れた。
少年の声がまだ耳に残っているようだった。
ラストシーンのとき、引き裂かれるような気持ちになりながら、確かに何かが胸に刻みこまれるのを感じた。
「なのに、なんでだろう」
先ほどまで見ていたはずの、少年の顔も、聞いたはずの少年の声も、何も思い出せなかった。